ドキュメンタリー映画「武蔵野」を観てきました。
映画の舞台は、埼玉県の「三富新田」。
この地は、江戸時代から続く落ち葉を堆肥にした循環型農業が現在も行われています。
そして、自分にとっても、思い出の地です。

地図で見ると、住宅と畑と林の地図記号が、交互に短冊のように並んでいます。
国土地理院の2万5千分の1の地図では、ちょうど「志木」と「与野」の境目あたりに位置しますが、短冊模様は東京近郊では、他では見られない特徴的な場所です。
新しい地図では、格子状の地割が、細い道で区切られているのがよくわかります。

 

 

 

 

 

若いころ、休日を使って、よくサイクリングをしていました。
地図を見て想像を膨らまし、現地に行って確かめる。
家から近い所でも新しい発見などあって、「旅」を楽しんでいました。

 

 

 

 

 

 

 

そのなかでも、とくに気になっていた場所が、この三富地区でした。

勤務をやり繰りしてなんとか2連休を確保し、所沢から川越近辺の1泊2日のサイクリング旅行に出ました。
目的は、国木田独歩の小説「武蔵野」を、自分でも体験すること。
当時はバブルの後半で、東京近郊の都市化がどんどん進んでいました。
いずれ「武蔵野」はなくなってしまうだろう、もうないかもしれないけど。
だけど、なくなる前に少しでも見ておきたい。

 

「武蔵野」の好きな一文

「されば君もし、一の小径を往き、たちまち三条に分かるる処に出たなら困るに及ばない、君のつえ杖を立ててその倒れたほうに往きたまえ。あるいはその路が君を小さな林に導く。・・・」

わずか5ページ程の部分ですが、武蔵野の魅力を余すことなく表現しています。

 

 

 

 

 

 

三富には、北西から南東に走る道を通って入りました。
前方左右に広がる林を抜けると防風林に守られた家々が連なり、畑が目の前に広がります。そして、また林と家と畑が同じように現れます。

ほんの少しでしたが、「武蔵野」を体験することができました。

 

 

 

 

 

 

 

バブルがはじけたり、リーマンショックがあったりしても、都市化は進みます。
今では、埼京線の高架の風景からは、もう、森や林や畑は見えません。
西部線や東上線に乗っても、住宅の連なりが続くだけです。

そんな中でも、この映画は、自然と伝統を守り、次世代に継ごうとしている人々がいることを見せてくれました。

 

 

 

 

 

 

若いころから、田舎暮らしにあこがれ、いまでも夢見ているオヤジです。

しかし、田舎暮らしへの夢を、地方に住む親戚や知り合いに話すと、農業は大変で収入も少ないからやめろと、よく言われていました。
皆、兼業していたり、自分で会社を立ち上げたりして、確実な収入を確保していたようです。
実生活での言葉なので、その通りなのでしょう。
また、都市部のサラリーマンには、知りえない苦労もあったことでしょう。

でも、子供のころから街中で暮らし、カブトムシをスーパーのレジ横でしか見たことのない身にとっては、自然の中での生活は永遠の夢です。
大人になって、漢方を学び、メディカルハーブをライフワークにしたのも、必然の流れだったのでしょう。

農業を生業としていない部外者の無責任な言葉かもしれませんが、人は自然から離れてはいけないし、離れて生きてはいけないものだと思います。
もちろん、科学技術の発達はより良い生活をつくり、都市の文化は心を豊かにしてくれます。

人間にとっては、両方が必要ですし、両方を求めても構わないと思うし、両方の恩恵を受けることは可能だと信じています。

自然に根差した生活と、都市の文化の橋渡しとして、メディカルハーブがキーワードとして使えないかと、試行錯誤をしています。

 

ドキュメンタリー映画「武蔵野」を観て、思いを膨らませました。
なんだか、自分の人生が収束してきた感じがします。