「ゴリラのココがこの世を去った。」
新聞を読んでいても、とくに気に留めることのない記事でしたが、その後に書かれたコラムにはビックリしました。

アメリカのゴリラ財団に飼われている「ココ」という雌ゴリラ。
手話で人と意思疎通ができたとのこと。
それまで知らなかったけれど、有名だったようです。

 

 

 

 

 

 

それだけだったら、そのまま通り過ぎるニュースでしたが、コラムには驚くことが書かれていました。

「飼い猫の事故死を知ったココが「ひどい」「悲しい」と示す映像を見た人もいるだろう。・・・」
「ゴリラは死ぬと快適な穴に行くと、ココが答えたことがある。・・・」

 

 

 

 

 

飼い猫の死を悲しむということは、自分と他者を区別している。自己を認識し、自我があるということです。
そしてさらに、生と死を理解しているということです。
驚くことに、死ぬと快適な穴に行くとは、さらに踏み込んだ心的活動の死後の世界の概念があるということです。

高度な言語を持たない類人猿に、そこまで心があるのでしょうか。

動物と「気持ちが通じ合う」といったことは、飼い主とペットの間でのエピソードで良く聞くことですし、経験的にも、そう感じます。
だから、動物に心があると思えるのですが、仮に自我があるとしても、生と死や、死後の世界の概念は、感覚的なものではなく哲学的または宗教的な考察の結果で生じるものです。
それは、心の有無ではなく、高度な精神活動があるのかどうかという、別のレベルの問題になります。

高度な精神活動は、複雑な言語を駆使して行われます。
はたしてゴリラの脳が、そこまで発達しているのでしょうか。
解剖学的には、にわかに信じられないことですが。

 

「ココ」の人との意思疎通については、ネット上では、いろいろと批判や憶測があるようです。

詳しい学術的情報を手に入れることのできる立場ではないので、事の真偽をとやかくいえませんが、他のゴリラやチンパンジーでの同じく手話による会話の情報は聞いたことがありません。

再現性があれば、科学的にも、宗教的にも、面白いことになるのではないでしょうか。

 

このニュースとコラムで、ある映画を思い出しました。
「イルカの日」。
子供の頃、テレビで観ました。
たしか、海洋学者の夫婦と、言葉を話す2匹のペアのイルカの物語だったと思います。
悪い奴らに犯罪に利用されそうになったイルカたちと、海洋学者との別れのシーンが、青い海と美しい音楽とともに今も心に残っています。

 

人間の思考や言葉は、視覚と5本の指を持って発達してきたと言われます。
そのため、イルカのように、他の感覚と運動機能を基に発達した生物は、思考が人間とは違っているため言葉の構造が人間とは異なり、理解が不可能ではないかという考えもあります。

しかし、異種生物間との会話は、人類の永遠の夢です。

SF作品にはよくあるテーマですし、ドリドル先生の物語は、世代を超えて親しまれています。

系外惑星が、毎週のように発見されている今、地球外生命体の発見や出会いは時間の問題だと考える天文学者は増えているといいます。

だからこそ、その時のためのシミュレーションとして、地球上の人間以外の生物の心を知り、会話を試みることは重要なのではないでしょうか。